面白い本を読んだ。この日記では基本的に小説ぐらいしか、読んだ感想を書いてきませんでしたが、これは面白いので紹介。『思想なんかいらない生活』(勢古浩爾ちくま新書)です。タイトルが表している通り「ふつうの人間の生き方を擁護するため」の本だ。すなわち、

 リシャール的なテマティスムというのは、仮に最終的に「倒錯」をプログラムとして含んでいるとしても、やはりひとつの遠近法を確保しようとする態度だと理解してよろしいのでしょうか。つまり、リシャール的テマティスムは、最終的にひとつの意味に送り返したり、あるいは隠されたひとつの本質へと人を送り届けることはないにしても、意味上の諸単位を、相互的転移を含みつつ、ひとつの遠近法のもとに描こうとする。(……)ところが、デリダが(……)批判しているのは、この遠近法の可能性そのもの、その形成可能性そのものです。デリダがやっていることは、ポリセミーの運動を一旦は踏破し、比喩の様々な系列を辿りなおしつつも、しかし、その系列が常にその系列に対する余剰でもなく欠如でもない。ある「空白」の偏在によって可能になっているという事態を、再―刻印することなわけですね。

 とか、

 あえて存在論というタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギトは、システムの間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学において隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、うぃあば横断的な方向において見られねばならない。そして、私はそれをトランスクリティークと呼ぶのである。

 とかいうのが、さっぱりわからない・わかりたくもない・わかってもなんら意味が無い、と思っている「ふつうの人」たちへの応援歌なのです。勢古浩爾といえば、『私を認めよ!』『まれに見るバカ』の2冊は読んでいたのですが、本書を読了して迷う間もなく、彼の著書を数冊イーエスブックスで注文してしまいました。